2012年02月07日

この世の鬼

こんばんは。としひで です。

今日は少しこわい鬼の話し。

最近の世の中は複雑で、組織などの社会システムにもきしみがあちこちで見られ、人の気持ちにも余裕がなくなってきたのだろうか、驚くようなひどい話を聞くことが少なくない。ぞっとするようなこわい出来事に巻き込まれたり、こわい仕打ちを受けたりしたという人の話を聞くと、この世に鬼というのはいるのかもしれないと思えてきたりしてしまう。

特に、それまで知っていると思っていた人が「鬼のような仕打ち」の仕掛け人として浮かび上がってくる図式に出会うと、その予感自体があまりにショックで、体中に震えが走る。そんな時は、相手が鬼だと思えば混乱した頭の整理もとりあえずつくし、ひどい仕打ちに理屈が通るし、傷ついた気持ちから出た怒りを向ける相手もはっきりする。

確かに、起こっている現象だけを見て、さらに被害者という人の話を聞くと、鬼の仕業に思えてくるのだが、その一方で、自分と話をしてきた生身の人間が、鬼だった、または鬼になった、というのは、簡単には信じがたくもある。

これは、その相手をかばうとかひいきするとかの話しではない。自分が付き合ってきた人が本気で意識的に心底邪悪になりうる、ということを受け入れると、何か自分の心の底の土台が崩れてしまう気がする。そんな重大なことは、間違えようのない確固たる確信を自分自身で得るまでは簡単には受け入れることはできない、ということだ。

だから、そうした鬼の出現の話しを聞いたとき、できるだけ別の角度から見たり、思い切って当の「鬼」の側の話を聞いたりしてみるようにしている。すると不思議なもので、あれだけはっきり見えていたはずの「鬼」が見えなくなったりする。

やはり人が積極的に邪悪になって根っこから鬼になっていたわけではなかった。それがわかるとホッとする。

しかし、話を聞いていき、どうやって「鬼の仕打ち」が起こってしまったのかがわかってくると、それも相当難しく、切ない。

元々はほんの少しのすれ違いや違和感だったものが、幾重にも重なっていく内に、抜き差しならない対立や橋渡しのしようがない亀裂になってしまう。当の本人たちも、よくないなあと思いながら、蟻地獄の穴に滑り落ちていくようになすすべもなく救いようのない状況に陥っていくのだろう。

鬼の仕打ちを受けている人にとっては、「鬼」はリアルに感じられて、実際に「鬼」に対峙しているのだろう。だから、「鬼」を見ている人が幻を見ている、見方が悪い、などというつもりはない。ぼく自身も、自分がそうした状況の当事者になったときには、鬼を感じたことがある。

ただ、鬼というのは関係性の中に生まれてくるもの、誰かに対してわいてくるもので、ある人が本質的に鬼だということではないように思う。「鬼」を生む要因は双方にあるのだろう。それを返せば、双方がつとめることで「鬼」の出現を防ぐこともできるのかもしれない。

おもしろいことに、これは「いい人」「かけがえのない人」にも全く同じことが言える。絶対的に「いい人」、本質的に「かけがえのない人」がいるのではなく、人と人の関係の中に、お互いにとっての「いい人」「かけがえのない人」が生まれてくるのだ。だから、ある人が一方的に「いい人」や「かけがえのない人」になったりはできない。それは、相手に望まれ、喜ばれ、幸せを与える中で生まれ維持されていくもの。

「鬼」という存在がつかみにくいのも、「いい人」というのが特定しにくいのも、それらの本質が人と人の間の関係の中でダイナミックに形を変えていくものだからなのだろう。

そんなわけで、今日は少し重い鬼の話しでした。(鬼が重いのではなくて、重いのは話しです、ちなみに)

としひで
posted by 創作舞踊集団 寶船 at 22:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 中山 俊秀 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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