2012年10月18日

自分の問題意識を大切に

としひで です。

先日、社会問題を学び主体的に考えるためのスタディツアーを作っている面白い団体(>リディラバ)の説明会で面白い話を聞きました。

いろいろな社会問題がマスコミに取り上げられたりしているのになぜ解決しないか。
それは、人々がそれらの問題を話題として消費するにとどまり、主体的な関心を持っていないから。

この「問題の消費」という見方が、まさに!でした。ということで、今日は「問題意識」について考えたことを。

問題意識は自分の生きる方向性、意識の仕方、価値の置き方や選び方を決めるもの。
ある意味、自分の生き方すべてを方向付けている。しかし、そこを以外と考えていない。

社会問題にしても、学問的問題にしても、多くの人は、マスメディアにしても論集などにしても、周りの権威が選び作ったものを拾い上げ、それに反応し、声を上げる。

確かに、今社会で起こっていることを敏感に感じ取るセンスは大事。でも、それは、誰かが形作った「問題意識」の流行りに乗ることとは違う。流行りに乗って盛り上がるのは、単に「問題」を消費しているにすぎないのだろう。

消費しているときはその問題は盛り上がりの「お題」にすぎない。そこでの議論も通り一遍の水掛け論や悪者探しなど、単なる炎上になってしまいがち。そして、ひととおりおもしろがった後は次の「お題」に移り、盛り上がる。

同じ問題に関心を持つにしても、問題意識のアングルは人によってかなり違うはず。一人ひとり独自の、主体的な問題意識が重なったのなら、もっと幅広い解決策や建設的な議論も起こるはずだろうし、粘り強い議論も続くだろう。

問題自身の情報だけでなくそれを取り巻く議論の情報も大量に渦巻いている今の情報社会、流通する問題意識に足をすくわれやすい。そんな中だからなおさら、他人に問題意識を預けないように注意していたい。はやっているからではなく、自分の感性で真に引っかかるものを「問題」として意識したい。

自分の違和感を大切にしよう。

としひで でした。
posted by 創作舞踊集団 寶船 at 11:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 中山 俊秀 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月08日

運命的な出会い

こんばんは。としひで です。

先日は秋公演『門は開かれ』へのご来場、応援、ありがとうございました。今回は週日の夜と言うこともあり、都合を付けていただくのが難しかった方々も多かったかと思いますが、次回(来年5月)は週末ですので、是非ともリベンジで見に来ていただければと思います。

他のところで書きましたが、僕が寶船に加わったのは一昨年の秋公演「宝が宝がやってきた」がきっかけでした。その時の出会いは強烈で、私の人生にとって「運命的な出会い」でした。そして、それからは、僕自身が皆さんとの「運命的出会い」を作れたらと思って寶船の活動に打ち込んでいます。

そこで、今日は、この「運命的な出会い」について考えてみたいと思います。

リゾート


取り組んでいることがグッと面白くなったり、人生の方向性が大きくシフトしたり、という大きな転機は、だいたい「ひと」がカギになっている。出来事や状況の変化がきっかけになることもあるが、実はそんな場合でも、出来事や状況そのものよりも、それによる人との関係の変化の方が本当のきっかけとなっていることが多い。

だから、人との出会いは大切にした方がいい。出会いで人生は決まると言っても過言ではない。人生をよく生きている人の話には、それなしでは自分の人生を語れないかけがえのない出会いや運命的必然を感じさせる出会いの話が決まって出てくる。

こういうことは若い頃からよく聞いてきたが、20代の頃はあまりぴんと来なかった。もちろん話、理屈としてはわかるのだが、「かけがえのない出会い」や「運命的な出会い」がどんな感じのもので、それらにどう巡り合うのかがわからなかった。

それが、歳を重ねて、いくつかの「運命的な出会い」を持つことができて、やっと実感としてわかってきた。
「運命的な出会い」が見つけにくい、特に若い頃にはぴんと来にくいのには実はそれなりの理由がある。

「運命的な出会い」というのは、その他の平凡な出会いと本質的に違うわけではない。だから、はじめの出会いで区別を付けることはできない。
それは、むしろ、はじめは何の変哲もない出会いだったものが、自分の人生がその出会いのまわりに巻き付いて大きく育ってきた、という感じで、後からその道筋を振り返ってみてはじめて感じるもの。

もう一歩踏み込んで言えば、自分の人生がその出会いに深く絡みついて育つかどうかも、自分次第。
その出会いにどれだけこだわり、大切にし、自分の人生を投資していくかということ、それが「ふつーの出会い」を「運命的な出会い」に育てたのだ。
つまり、運命的な出会いを運命的にしているのは、出会いそのものではなく、その後の自分の行動。

「運命的な出会い」というと、起こった瞬間に電撃に打たれたような衝撃が走って魔法のごとく日々ががらりと変わるといった感覚を想像してしまいがちだが、
そうした感覚はその場では感じない。振り返ってみると、そのような劇的な変化として記憶を再編集したくなるものなのだろうが、実際は徐々に変化していくもの。

「すべてを変える運命的な出会い」が降ってくることを期待して天を見ていても何も起こらない。
「運命的な出会い」が転がっているのに出くわさないことに焦りを感じたり、絶望することはない。

前に進んでいるときには、出会った人との関係を大切にして、投資を重ねていくだけ。
「運命的な出会い」は自分が行動を重ねて作っていくもの。
いい出会いにこだわり、大切に自分の人生を絡ませていけば、自然と「運命的な出会い」になっていくだろう。

僕は人生の中で運命的な出会いをたくさん育てたい。
そして、それと同時に、相手が「運命的な出会い」にしたいと思うような出会いを一つでも多く作っていきたい。

としひで でした。
posted by 創作舞踊集団 寶船 at 23:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 中山 俊秀 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月11日

踊りかけられたら踊り返せ

お久しぶりです。としひで です。

まだまだ暑い日が続いていますが、阿波踊り大会は終わって、秋祭りがあちらこちらで行われ、季節の移り変わりが感じられるようになってきましたね。

夏に参加するのは今年で2回目。今年の夏も仕事の関係で私は始めと終わりにしか参加できませんでしたが、その少ない参加大会の中では精一杯踊り、叩きました。技術的にはまだまだド素人ですが、それでも素人なりに踊りも太鼓も自分に体になじんできた気がします。

さて、このブログに投稿するのもずいぶんと久しぶりになってしまいましたが、今日は夏の踊りの中で思ったことを書いておこうと思います。

やや欠け月


祭りでの踊りの意義は形を見せることにあるわけではない。その場で身体を削りながら命を燃やすこと、しかも、皆と共に人と人との間で燃やすことにその意味がある。

作り出される形はその命のほとばしり。それは美しいが、その美しさの本当の深みは、自分で命を燃やしたことがある人、燃やそうとしている人にしか見えない。

我々は皆違った踊り方で命を燃やそうとしている。自分なりのやり方で生きようとしている。
そして、そこで生み出された形は植物が吐き出す酸素のようにこの世の新たな生命活動に命を与える。

ただ見物に徹するのは、ただ酸素の消費に徹するのと同じで、生み出された命の元の消費でしかない。

踊り掛けられたら踊り返せ。自分を放り出して命を燃やせ。生命を生み出す活動に加われ。

そんなことを思いながら僕は踊っている。

としひで でした。
posted by 創作舞踊集団 寶船 at 19:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 中山 俊秀 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月03日

アドリブでいこう

僕は、アドリブを大事に人生を生きていきたいと思う。

「アドリブ」というのは、自分の技を自分という枠のなかだけで演じているのではなく、その場その場で、その時の相手との間合いの中で、相手との駆け引きの中で、相手と共に自分の動きを創り出す、ということ。

駆け引きの相手には共演者も、観客も含まれる。踊りにしても人生にしてもその場の動きに関わってくれる人すべてが「相手」。

人との関係の中で動的に動いていると、僕らは自分たちの持ち前の力以上の力を発揮する。それは相手との駆け引きの中ではフィードバックが多様で想定外であり得るから。

生きたアドリブづくりには、お互いが相手に「振り回される」ことが大事。同じ場にいても、お互いが自分の殻に収まって、自分がすべてコントロールすることにこだわっていると、お互い自分の想定内でしか動かない。相手に「あずけて」自分を振り回させることで、相手の想定外の動きに突き動かされ、お互いの行動が持ち前の枠を超えて、はじける。

これは、「相手まかせ」「状況まかせ」とは違う。あずける先は相手自身ではない。相手からの要求や刺激だけに応えると、動きは結局相手という一人の人間の想定内に収まって固定化してしまう。

大事なのは、自分だけでもなく、相手だけでもなく、自分と相手との関係の中で相手の動きとどうからむかということ。刻々と変わる相手との間合いの中で、自分の踏み出した一歩に相手がどう応えてくるか。それを踏まえて、その場の流れと新たな間合いの中にどう自分の次の動きを織り込んでいくか。

そんな風に、常に相手を見ながら、相手と引っ張り引っ張られながら、時には相手からの無茶振りに慌てながら、柔軟に、自分の多様な力を引きださせながら、生きていきたい。

としひで
posted by 創作舞踊集団 寶船 at 02:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 中山 俊秀 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月04日

行動派になる秘訣

こんばんは、としひで です。

春のワンマン、楽しんでいただけましたか。お会いできた方々、持ち帰っていただいたトロピカル、みなさんの生活にどんな香りをもたらしているでしょうか。今回お会いできなかった方々、次回もまたすばらしい贈り物をおわけしますので、お楽しみに。

さて、今日は心配性の僕が行動派になろうと試行錯誤を繰り返した末に気がついたことをお話ししようと思います。

だれでも、自分の力を最大限に発揮したい!と思いますよね。

そんな時には、どうすれば力が発揮できるのか、何をやればよいのかなどと考え込まずに、とにかく行動することだ、とよく言われます。僕も頭ではそれがわかっていたつもりだったのですが、これが以外と難しい。どんどん行動していくというのはどういうことで、どうすればできるのでしょうか。考えずに闇雲に体当たりするということとは違う気がします。いろいろ思い切ったことをしてみたり、試しにやってみたりはするのですが、行動することでバリバリ切り開いていくということはなかなか継続的に続けられませんでした。

わかりにくいのは―少なくとも僕にはわかりにくかったのは、それまで悩み性、心配性だった人が行動派に変わっていくためには、体を動かそう!と意気込むだけでは難しい部分があるということです。悩まず行動しよう!とやりはじめても、結局次々と心配やら不安やら後悔やら自己批判やらが沸き上がってくると行動する自分はすぐに疲弊してしまうんですね。実際、僕も不安やら自己批判がきつい方なので、行動するときはやること自体の大変さの上に自己不信の重荷を背負ってやってきました。そこで感じる「重荷」が、何かを行動に移すときの大きな足かせになってきたのです。

そのことにやっと最近気がつきました。

そして、それと同時に、大事なのは今を生き抜こうとしている自分が力を最大限出せるようにとことん応援するということだ、ということがわかったんです。

リアルに事が動くのは「今」だけ。それ以外は、将来への立派そうな予想も不安もみな想像だったり、夢想だったり、取り越し苦労だったり、思い込みだったり、過去に対する批判もみな無責任なコメントだったり、妄想だったり、現実の光の中では雲散霧消してしまうような実体のないもの。そのリアルな「今」に立ち向かっている「自分」が唯一の望み。一番正しく、一番偉い。その「今にたちむかう自分」にその力を最大限に出してもらわなければ、これからの自分もないんです。すばらしいはずの未来の自分や想像上の自分と比べて「今に対峙する自分」を小馬鹿にしてないがしろにしたら、「自分」自体がなくなるんです。だから、「今に対峙する自分」が一番偉い。

だから応援するんです。「今に対峙する自分」は全肯定で出発です。

これは自分に甘くすることとはちがいます。今を力一杯生きようと歯を食いしばることは大前提。その上で、そうしている自分を大いに応援しようと言うことです。「今に対峙する自分」を自分がたたいてどうする。他人のように批判してどうする。そういうことです。

詰まるところ、バリバリ行動して切り拓いていくパターンを作って自分の力をめいっぱい発揮していくには、「今に対峙する自分」を精一杯応援することで「今」を生き抜く戦いを心置きなく力一杯闘わせてあげるということ。そう思ったら腑に落ちました。

としひで でした。
posted by 創作舞踊集団 寶船 at 00:18| Comment(1) | TrackBack(0) | 中山 俊秀 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月25日

「命がけ」と喜びのやり取りについての追記

こんばんは、としひで です。
数日前のブログで、僕は命がけで喜びにこだわり、命がけで人を喜ばせたい、ということを書きました。その後、このことに関して二つばかり書き足したくなったので、追加を。

まず、「命がけ」ということばについて。

ご存じの通り、寶船の合い言葉は「踊り出したら命がけ」。寶船はとにかく手加減せずに全力を出して踊る、という意味ですが、この「命がけ」ということばが微妙にしっくり来ていなかったんです。それというのも、「命がけ」というと、僕には特攻隊のような破れかぶれの体当たりという感じで、文字どおり死にものぐるいで死ぬつもりで無茶をするといったイメージがあったんです。でも、僕は思い切り生きるために踊っている。そのあたりのズレが「命がけで踊る」ということばに違和感を持たせていたのだと最近(きのう!)気がつきました。そして、同時に、実は「命がけ」というのはそういう意味ではないのだと気がついたのです。

みなさんが「命がけ」ということばに対して持つイメージがどんなものかわかりませんが、僕と同じような感覚の人もいるかもしれないので、その人たちのために僕の気づきを共有します。

「命がけ」というのは、本気で命をつぎ込むということ。これは命をなげうつと言うことではなく、大事にすることに全力で命を余すところなくつぎ込んで生き切るということです。だから、「命がけで踊る」というのは、自分の力を全て出し切って踊ることを通して大いに生きる、ということです。命がけで喜び、喜ばせる、というのも、喜び、喜ばせることを一生懸命やってとことん生きる、ということです。

これがわかってやっと、「命がけで踊る」という言葉がストンと心に落ちました。遅ればせながら。

二つ目は、人を喜ばせるということの意味について。

命がけで人を喜ばせたいと思っている僕にとって、人が喜んでくれることは無性にうれしい。先週わたるくんがこのブログに書いてくれた気持ち(>この記事)は涙が出るほどうれしかった。良いことを言ってくれたとかいうことではなく、僕との出会いや僕と話したことを喜んでくれたことが、うれしい。

審査や批評家などの「客観的な評価」や「賛辞」などもありがたいことには違いないが、そうした生の感覚を押し殺して平均化された基準にはめ込まれた反応ではなく、一人ひとりの人の小さくても生で純粋な喜びこそに、僕は生きがいを感じる。

だから、僕も大切な人には「客観的な評価」や型どおりの「褒め言葉」で気持ちを伝えるような無礼なまねはしない。自分のもらった喜び、感動を素直に直接伝えたいと思う。

そして、そんな生で純粋な喜びをやり取りする関係の中で生きていきたいと思う。

としひで でした。
posted by 創作舞踊集団 寶船 at 00:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 中山 俊秀 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月23日

喜び、喜ばせることに命かけませんか

こんばんは、としひで です。
ちょっと最近考えていることを。

自分の生きがいってなんなのだろうか。
そんなことを、いい歳になっても考え続けている。

自分の力を発揮して、なんかやってやりたい。

でも、「力を発揮する」、「なんかやってやる」とはどんなことなのだろう。

とことん突き詰めると、それは誰かに喜ばれる、ということなんだろうと思う。

それも、「ああ、おもしろかった」とさらっと流せるような気軽な喜びじゃなくて、鳥肌が立つような感激とか、涙が出るようなうれしさとか、身動きできないような美しさとか。そんな、純度の高い喜びを感じてもらえるということ。

僕は今、そんな強烈な喜びを人にもたらすことに命をかけたいと思う。

そんな風に思ったときに、一緒に命をかけようと言える仲間は意外と少ない。
特に大人になると。

人を心底喜ばせることは、自分自信がとことん喜びにこだわり、掘り下げていなくてはできない。
でも、よい組織人である大人は、組織内での自分の役割や責任を喜びとすり替えてしまいがち。組織の中できちんと働くことの満足感やそれへの報酬が心の喜びに優先してしまう。

喜ぶことにとことんこだわり、人を喜ばせることに一緒に命をかけようとする人、いませんか。
連絡待ってます。

としひで でした。
posted by 創作舞踊集団 寶船 at 00:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 中山 俊秀 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月10日

あがいてます

こんにちは。としひで です。

ずいぶんご無沙汰してしまいました。
毎週一つは必ず書こうと決めて、15回ほどはがんばれましたが、1月半ばくらいからずっと体調が悪かったり、忙しくて首が回らなかったりで、書けない時が少し続いてしまいました。そうしたら、今度は書き始められなくなってしまいました。続いていたときはできたのに、書こうと思っても頭が動かないというか、何を書いていいかわからなくなってしまったのです。

書かなくては!と焦っては余計に書けなくなるからと、自分では焦らないようにしているつもりなのですが、やる気を起こさせようと自分自身を突いたり揺すったりしているのでしょう。自分に発破をかけるもう一人の自分とそんな無理強いに反発する自分の無意識の抵抗みたいなものがぶつかり合っているのかもしれません。今週も書けなかったという膠着状態がもう数週間続いています。

これがブログだけだったらまあいいのですが、実はこうした膠着状態・金縛りが自分の毎日の全体を覆っているようで、なかなか困っています。

焦れば焦るほど悪循環に陥るとわかっていても、なかなか心を空っぽにできていないのです。

寶船の稽古の時は有無を言わさず体を動かすので、頭がかける金縛りが破れるのですが、なかなかその効果が持続させられていません。

今日の投稿はその膠着状態を破る突破口を作ろうのたうち回りながら書いています。内容は何もないですが、書くこと自体がぼくの小さな戦いなのです。

内容を期待して読んでくれた方、すみません。
内容を気にせずぼくののたうち回りに寄り添ってくれた方、ありがとう。あなたが付き合ってくれたのでやりきれました。

としひで でした。
posted by 創作舞踊集団 寶船 at 12:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 中山 俊秀 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月06日

ムーブメント

こんばんは、としひで です。

ご無沙汰しました。前回の投稿から一ヶ月ほどあいてしまいました。

2月の前半は、仕事上でも詰まっていて、そのせいもあってか体調も優れず、インフルエンザ感染こそ逃れたものの、風邪っぽいものがこじれて長引くやらぶり返すやらで、どうにもなりませんでした。下旬はアメリカに出張に行き、そのあと間髪入れずに会議やらシンポジウムやらで、ばたばた。

アメリカの出張は南カリフォルニアのサンタバーバラというところに行ってきました。

雰囲気を少しお裾分け:
IMG_0335.jpgサンタバーバラ空港

IMG_0313.jpgカリフォルニア大学サンタバーバラ校のキャンパス

大学院の時の恩師たちに会って一緒に研究をするプロジェクトの相談をしてきました。毎日いろんな人とじっくり話をしたので、ゆっくりとビーチを歩くこともできませんでしたが、春先のような陽気の古巣に戻るのはよかったです。

さてさて、寶船は今、春ワンマンに向けて稽古を重ねています。やはり、目標に向かってみんなでがんばっているときには特に寶船が持つムーブメントを作る力・可能性にワクワクします。そこで、今日はムーブメントについて。

ムーブメントというのは、ビジョンははっきりさせ、明確に伝えていくことで起きていく。ただ、世の中をでっかく変えるムーブメントは、直接手を下して起こすことは難しい。

大きな雪崩を直接手を下して起こすことが難しいのと同じこと。
直接手を下せるのは、あくまで自分の手が届く小さな範囲の動き。

実際の手で作った小さな一握りの雪玉が結果として大きな雪崩を起こすことはある。それは現実の物理的連鎖が重なって起こる物理現象で、魔法でも奇跡でもない。けれども、こうした連鎖は方向性も規模もコントロールできない。

同じように、一つの活動が一握りの人たちにもたらす影響が、連鎖によって結果的に大規模な社会的変革に繋がることもある。だが、やはり、その方向性も規模もコントロールはできない。ドミノ倒しのように、直接手を下すのは最初のドミノをコツンと倒すだけで、後はそれが広がっていくのを見るだけ。

だから、社会的なムーブメントについては、最終形態にこだわることはあまり意味がない。

ムーブメントを起こしてやろうとどれだけ意気込んでも、実際にやっていけるのは、周りにあるチャンスを活かしながら、特定の小規模のグループに向けた具体的な働きかけを繰り返して行くことのみ。

活動の結果が大規模なムーブメントに結びついた時は、逆に気をつけどころ。活動の形態を大規模にする要請が高まり、イベントならばより大きなホールで何千・何万の大聴衆を相手にやってくれと言われたりするかもしれない。でも、そうなると、伝達がうわずり、活動の生身のインパクトはかなり低下するような気がする。社会的インパクトは高まるように見えるが、それはマスコミなどが騒ぎ立てるからであって、個々の人への心のインパクトは落ちる。

メッセージのインパクトを保つためには、「生の伝達」が感じられる、ローカルで小規模な活動を重ねていくことが大切。

今日は、ムーブメントについて考えてみました。

としひで
posted by 創作舞踊集団 寶船 at 23:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 中山 俊秀 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月07日

この世の鬼

こんばんは。としひで です。

今日は少しこわい鬼の話し。

最近の世の中は複雑で、組織などの社会システムにもきしみがあちこちで見られ、人の気持ちにも余裕がなくなってきたのだろうか、驚くようなひどい話を聞くことが少なくない。ぞっとするようなこわい出来事に巻き込まれたり、こわい仕打ちを受けたりしたという人の話を聞くと、この世に鬼というのはいるのかもしれないと思えてきたりしてしまう。

特に、それまで知っていると思っていた人が「鬼のような仕打ち」の仕掛け人として浮かび上がってくる図式に出会うと、その予感自体があまりにショックで、体中に震えが走る。そんな時は、相手が鬼だと思えば混乱した頭の整理もとりあえずつくし、ひどい仕打ちに理屈が通るし、傷ついた気持ちから出た怒りを向ける相手もはっきりする。

確かに、起こっている現象だけを見て、さらに被害者という人の話を聞くと、鬼の仕業に思えてくるのだが、その一方で、自分と話をしてきた生身の人間が、鬼だった、または鬼になった、というのは、簡単には信じがたくもある。

これは、その相手をかばうとかひいきするとかの話しではない。自分が付き合ってきた人が本気で意識的に心底邪悪になりうる、ということを受け入れると、何か自分の心の底の土台が崩れてしまう気がする。そんな重大なことは、間違えようのない確固たる確信を自分自身で得るまでは簡単には受け入れることはできない、ということだ。

だから、そうした鬼の出現の話しを聞いたとき、できるだけ別の角度から見たり、思い切って当の「鬼」の側の話を聞いたりしてみるようにしている。すると不思議なもので、あれだけはっきり見えていたはずの「鬼」が見えなくなったりする。

やはり人が積極的に邪悪になって根っこから鬼になっていたわけではなかった。それがわかるとホッとする。

しかし、話を聞いていき、どうやって「鬼の仕打ち」が起こってしまったのかがわかってくると、それも相当難しく、切ない。

元々はほんの少しのすれ違いや違和感だったものが、幾重にも重なっていく内に、抜き差しならない対立や橋渡しのしようがない亀裂になってしまう。当の本人たちも、よくないなあと思いながら、蟻地獄の穴に滑り落ちていくようになすすべもなく救いようのない状況に陥っていくのだろう。

鬼の仕打ちを受けている人にとっては、「鬼」はリアルに感じられて、実際に「鬼」に対峙しているのだろう。だから、「鬼」を見ている人が幻を見ている、見方が悪い、などというつもりはない。ぼく自身も、自分がそうした状況の当事者になったときには、鬼を感じたことがある。

ただ、鬼というのは関係性の中に生まれてくるもの、誰かに対してわいてくるもので、ある人が本質的に鬼だということではないように思う。「鬼」を生む要因は双方にあるのだろう。それを返せば、双方がつとめることで「鬼」の出現を防ぐこともできるのかもしれない。

おもしろいことに、これは「いい人」「かけがえのない人」にも全く同じことが言える。絶対的に「いい人」、本質的に「かけがえのない人」がいるのではなく、人と人の関係の中に、お互いにとっての「いい人」「かけがえのない人」が生まれてくるのだ。だから、ある人が一方的に「いい人」や「かけがえのない人」になったりはできない。それは、相手に望まれ、喜ばれ、幸せを与える中で生まれ維持されていくもの。

「鬼」という存在がつかみにくいのも、「いい人」というのが特定しにくいのも、それらの本質が人と人の間の関係の中でダイナミックに形を変えていくものだからなのだろう。

そんなわけで、今日は少し重い鬼の話しでした。(鬼が重いのではなくて、重いのは話しです、ちなみに)

としひで
posted by 創作舞踊集団 寶船 at 22:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 中山 俊秀 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月31日

世の中をよくしたい〜ぼくのやり方

こんばんは。としひで です。
今日は、ぼくが世の中をどんな風に変えたいと思っているかについて。

せっかく生まれてきたのだから、この世の中を少しでも変えたい。

自分には何ができるのだろう。自分は世界をどう変えたいと思うのだろう。若い頃からずいぶん考えてきた。

そして、最近になってやっとわかってきた。

ぼくのやりたいのは、一つでも多く特別なもの、美しいものを世界に生み出すこと。

でも、ぼくの生み出したい「特別なもの、美しいもの」はモノじゃない。

思うに、世の中には絶対的に「特別な」「美しい」モノなんてない。逆に、何の変哲もない物や言葉や場所や時間でも、無類の輝きを放って心に深く残るものもある。

「特別さ」や「美しさ」はモノそれ自体にあるわけじゃないんだ。

あの人が落としていった10円玉。
あの子が言った「うれしい」の一言。
あの人たちと笑った家

モノを、特別な何か、美しい何かに変えるのは一緒に一生懸命生きて、一緒に深く感じる経験。そこからは新たに生きる力がわいてくる。その実感に、ぼくは美しさを感じる。

だから、特別なもの、美しいものを作り出すということは、人とつながって一生懸命生きることそのもの。それが、世の中を少しだけでもよく、美しくする方法だと、ぼくは思っている。

一人の人間がこんな風にして美しさを作り出す力は限られているけれども、みんながお互いにつながって一生懸命に生き、互いにかけがえのない美しい経験を作り出していければ、世の中はかなりよくなる気がする。

としひで でした。
posted by 創作舞踊集団 寶船 at 23:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 中山 俊秀 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月26日

ちょっと変わった自分を出す理由

こんばんは。としひで です。

告白します。
私は今年49才になろうというのに髪の毛を伸ばして後ろで縛ってます。

そもそもなんで髪の毛を伸ばすに至ったかについては、まあ、いろいろな考えがあったりなかったりですが、今ではそれなりの思いがあってやっています。

髪の毛を縛り始めたときには、反響はあって、「どうしたの?(驚・笑)」という人から「いいじゃん!」という人までいろいろ。もちろん、面と向かってそうは言いませんが「なにあれ?」「いい歳して!」「ばかだねえ!」とか思っている人もたくさんいるでしょう。ありがたいことに、親はそういう言いにくいことを言ってくれるもので、ちゃんとした社会人としてはいかがなものかという趣旨の忠告をくれました。

髪を縛っているなんて「ちゃんとした大人」のすることではない、という一般的感覚は私もわからないではないです。でも、だからこそ、その一般的感覚に埋もれたくないのです。私は「誰とも同じ」ではないです。これは私が特別個性的ということではなくて、私は私なりの変わったところがあるということです。人間誰一人「みんなと同じ人」なんていないでしょう。ちょっと違和感を作って、この人どんな人?とひとが思うきっかけを作れればおもしろい、くらいの気持ちです。

もちろん、その違和感が不快感や不信感につながるリスクも少なくないと思います(特に立派な社会人の人には)。でも、そういうリスクをかかえることが、逆に自分の毎日に適度な緊張感を与えてくれて、良いところもあります。それに、もし縛った髪の毛ですべてがダメになるような行儀のいい世界ではどのみち窮屈でうまくやっていけない気もするので、予めそんなところもあるやつだとわかった方がいいかななどと思ったりも。

昔はそんな自分のにおいを出すのはすごく恥ずかしかったけれども、変わりました(まだ恥ずかしさは多分にありますが)。

それは、年をとってふてぶてしくなったのもあるけれども、より大きいのは、自分のにおいに共感してくれる人に会いたいという気持ちの方が強くなってきたこと。自分のにおいを消して「みんな」(つまり不特定多数の誰かたち)にヘンだと思われたりしないようにすることよりも、個性的な自分(ちょっと変わっている自分)をそのまま出して、似たような「個性的な他人」(同じようにちょっと変わっているあの人)に強い共感を感じてもらえることの方が大事に思えてきたんです。

自分と合う、いい人に会いたい!でも、たくさんの人の中からそんな人を見つけるのは簡単じゃない。だったら、自分からも信号出して、相手に見つけてもらいやすくしよう!と、そういうわけです。

だから、私が「個性的な自分」を出していこうとするのは、たんなる「目立ちたがり」と少し違います。いや、まあ、目立ちたがりとも言えますが、いわゆる巷に言う目立ちたがりは不特定多数のみんなの目を惹きたいというのに対して、私の目立ちたがりは、自分の感性と響き合う狭い範囲の人に対して目立ちたい、と言うことなんだと思います。

としひで でした。
posted by 創作舞踊集団 寶船 at 00:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 中山 俊秀 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月17日

世の中を変えるには

こんばんは、としひでです。

今日は世直しについて。

若いときは、世の中のあり方に疑問を持ったり怒ったりもしくは夢を持ったりして、何か世の中を変えてやりたい、大きな影響をもたらしたいというエネルギーが沸き上がってきたりする。でもその一方で、何からどう始めたらよいのか見当もつきにくく、社会的な地位や力もない。それゆえ強い焦りやフラストレーションを感じる若者も少なくないだろう。

確かに、若い時には、社会の仕組みや制度や組織を変えたりする目に見えるような「世直し」は起こしにくい。

でも、それは若者に世界を変える力がないということではない。単に、仕組みや制度や組織を通して変革をめざすという「おとなの世直し」がしにくいというだけのことだ。

「社会に出ておとなになる」と仕組みや制度の中で生きるようになる。そうしていく中で、人は世の中を仕組みや制度や組織で捉えるようになり、世の中をよりよくしようというときもやはり仕組みや制度や組織で考えるようになる。

そんな「おとな」たちの話を聞いていると、「世直し」は仕組みや制度や組織を変えなくてはできないように思うかもしれないが、そんなことはない。

いや、むしろ「おとな」たちの発想の方が問題なのだ。

「世の中」というのは、人と人の間の働きかけや支え合いというつながりのネットワークでできている。そして、仕組みや制度や組織はそうした人と人の関わり合いをよりよく支えるためにできてきた。あくまで人の関係が先で、制度が後。

だから、仕組みや制度を変えることによって世の中を変えることはできない。人の心のあり方や人どうしの関わり合いのあり方を、外側から強制的に変えようとしても、本当には変わらない。

人のあり方、人どうしの関係のあり方を変えるのは、その人たちの体と心を直に揺さぶる感動とか強い希望。心の中に火がついたとき、そういう時に人は動くし、変わる。そして、こうした感動とか強い希望は年齢にかかわらず引き起こせるもの。いや、若者だからこそ持てる力も大きい。

だから、若者たちよ、仕組みや制度や組織をどうにかして世の中を変えようなどという「おとなびた考え」はせずに、人の心の根っこを震わせる正攻法で世の中を変えてやろうぜ!

としひで でした。
posted by 創作舞踊集団 寶船 at 23:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 中山 俊秀 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月09日

かっこいい自分をめざして

こんばんは、としひで です。

明けましておめでとうございます。
新しい年が始まりましたね。今年もよろしくお願いします。

今日は、年頭に当たっての今年の目標についてお話ししようと思います。


昨年は寶船と生き始めて、ぼくの人生もまた新しい方向にひろがり始めた感じがする。もう少し正確に言えば、今までの自分の殻を越えたいという強い気持ちと勇気が得られて生き方が変わってきた気がする。その結果として人生が目に見えて変わっていく予感がする。

さて、今年はどんなところをめざそうか。

昨年の12月から考えてきて、数日前に決めた。ぼくが今年の目標に掲げるのは、「自分のかっこよさを追求する」こと。

では、「かっこよさ」とはなにか。思うに、「かっこよさ」の核は「華麗さ」にある。そして、華麗さは、度肝を抜く奇抜さ、技の美しさ、ことばにならない説得力、安心して見ていられる技量、簡単そうに見えるほどこなれた動き、が基盤になっている。

「かっこいいもの」は見ればすぐわかる。説明は要らない。

でも、「かっこよさ」を身につけ、「かっこいい」技を生み出すのはすこぶる難しい。日常を遙かに越えた華麗さは、その人の持つ特有の強みが他にはない形で磨き上げられた時に生まれるもの。だから、作りうる「かっこよさ」もその突き詰め方も個々人で全く違うもので、みんなが使い回せるかっこよくなる公式などない。

かっこよくなりたいと思うとき、自分がかっこいいと思う人をモデルにするところから始めてみるのは一つの手。ぼくもそうしてきた。たとえば、寶船で他の連員がかっこいいなあと思ったら、なんとかまねをしてみようとしてきた。

しかし、やっかいなのは、自分が追いかけるモデルは往々にして自分とタイプが違ったり、自分とは違った質の強みを持っている人であることが多い。そうしたモデルを追いかけると、自分にないものばかり目についたり、まねしようとしてもちっとも身につかなかったりして、フラストレーションや劣等感が強まるばかりなのだ。そんな場合は、ロールモデルが自分を引き上げてくれるどころか、逆に自分を落とし込んでしまうことになる。

だから、詰まるところは、かっこいい自分は自分の中から魅力を掘り起こして、自分の中で磨かなくてはならない。

ただ、これは自分一人で山にこもって自らを見つめ続けたりすることでできるわけではない。なぜなら、自分の強み、魅力について自分は意外と知らないからだ。自分の強み、自分特有の魅力は、自分をしっかり見てくれている信頼できる友からのフィードバックではじめてわかるもの。自分の最強の武器は自分では全く気がついていない意外な特性だったりするかもしれない。

こう考えてくると、ぼくの今年の目標はこんな形に言い換えられる:

自分を見てくれる人たちにいろいろな自分を披露し、返してくれる反応からかっこいい自分の原石を見つけ、それを磨いていく。

寶船の仲間たち、寶船を応援してくれるみなさん、そういうことでがんばりますので、よろしく!

としひで でした。
posted by 創作舞踊集団 寶船 at 23:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 中山 俊秀 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月26日

奇跡の起こし方

こんばんは、としひで です。

クリスマス、どんな風に過ごしましたか。

クリスマスはぼくが一年の中で一番好きな日。クリスマスに起こる小さな「奇跡」、それを家族みんなで楽しみにして、喜び合う時間が好きだから。

そんな奇跡の季節だから、今日はこの「奇跡」について考えて見ようと思う。奇跡には、自然や宇宙の中で我々の理解を超えた力が働いて起こされるものもあるが、時に、生身の人間が引き起こすものもある。誰かがやったことがあまりにすばらしくて、どうやってそんなことができたのか想像もつかない、そんな風に思えるとき、我々は「奇跡」を感じる。

「奇跡」を起こせる人は、いったいどうやって起こすのだろう。

「奇跡」の不思議を解くカギは、「奇跡は他の人にとって起こるもの」というところにあるように思う。どんなにすごい離れ技も、それがすごいと映るのはそれに度肝を抜かれる観衆の視点から見たときのことで、その技を起こしている当の本人には想定内のこと。これは神様でもサンタクロースでも同じだ。

そこに奇跡を自在に生み出すことの難しさと技がある。だれでもそうだが、自分の想定内のことだと、それが他の人にとってどれだけすごいことなのかということはわかりにくい。他の人の驚嘆の声や感激の涙を見てはじめて、その非凡さに気がつくものなのだろう。

だから、単に非凡な能力があるだけでは奇跡は起こせない。奇跡を意図的に生み出すためは、自分の非凡な能力を客観的に知っていて、その能力を他の人の幸せに絡めて発揮させることが必要だ。

むしろ、超能力的な力よりも、自分の力を心得ていること、そして他の人の必要に対する想像力・勘が強いことの方がより重要なものなのかもしれない。

人はだれでも非凡な何かを持っているもの。その非凡ななにかをじっくり見つめ、自分の非凡な強みを他の人の幸せと絡めて発揮させることができれば、君やぼくにも「奇跡」が起こせるんじゃないだろうか。

せっかくの人生、奇跡の経験者だけではなく、奇跡を生み出す人にもなりたくない?

としひで でした。
posted by 創作舞踊集団 寶船 at 22:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 中山 俊秀 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月19日

感動する力

こんばんは、としひで です。
きょうは感動する力についてのはなし。

最近はひとがあまり感動しなくなった、なんていうことを聞くことがある。

日常得られる情報が爆発的に増え、みんなたいていのことでは驚いたり感動したりしなくなったのか、そもそも世界がつまんなくなったのか。

いや、もし本当に人々の感動が少なくなったとしたら、それは世界に驚くべきこと、感動すべきことが少なくなったことが理由ではないだろう。

感動というものは見ている対象からもたらされるもの、だと思いがちだが、ちがう。そのことは、感動を生む「美しいもの」のかたちが時代や地域・社会によって大きく変わることからもわかる。もし感動が対象によって決まる客観的なものだったら、どこにいっても感動の形は同じはずだ。

むしろ、感動は、感じ手がもつ「感じる力」から生み出される(刺激への反応として自動的に生じるのではなく)。そして、この感動力というのは、他の人の感じ方と共鳴することを通して育てられていく。「ほら!きれいだね!」「すごいよね!」と感動の気持ちを共有し、喜び合う中で、感じる喜びと感じ方がよりはっきりと形作られていく。

だから、感じる喜びを共有し、共鳴させられる相手が周りにいないと感動力は育ちにくい。「無感動」な人たちは、自分が感じたことを他の人たちと共鳴させ合い喜び合うことができてこなかったがために、感動の仕方がわからないんだと思う。

驚くべきこと、感動すべきことは、周りにいっぱいあるぞ!
おもしろいこと、すてきな人、グッとくる瞬間、うれしい場所...

感じ方がわからなくなっちゃった人、感じる喜びを響かせ合う相手に恵まれない人、寶船に遊びにおいで。よく響くいい仲間がたくさんいるよ。そうしたら世界が違って見えてくるよ、きっと。


としひで でした。
posted by 創作舞踊集団 寶船 at 23:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 中山 俊秀 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月13日

自分を生きよう

こんばんは、としひで です。

今更だけども、今の時代って本当に消費中心の世の中だなあ、と改めて恐ろしく思う。

僕らは日々様々な商品やサービスに囲まれ、それを消費して生活している。その商品やサービスの多くは、その生産に僕たちが一切関わらず、誰がどうやって生産しているのかも知らず、生身の人間が関わっていることさえも意識しない。

たとえば、今日乗ったバスを掃除した人のことを思い浮かべながらバスに乗った人が一人でもいるだろうか。

そんな純粋消費活動では、僕たちは冷めた目で商品の価値を値踏みして選び、コストを見ながら、値切れるものは値切って、底値で買おうとする。カギは、一番良さそうでお得な商品を選ぶこと、そしてそれを安く買うこと。消費者の常識だ。

おもしろい(恐ろしい)のは、その消費者マインドが、自分の人生を考えるうえにまで及んできていること。

高度成長の時代を通してみんなが同質の生き方や価値を求めるようになる中で、生き方が「職業」や「キャリア」という形で定型化され、人はそうした「生き型」を値踏みし、その中から良さげなもの、お得なものを選び取ろうとするようになった。知恵を絞るのは、どうやって人がうらやむようないい「生き型」をゲットするのか、ということ。そして首尾よくできた人は「勝ち組」、できなかった人は「負け組」。

ちょっと待った。人の一生ってそんな簡単な話?テーマパークのライドみたいに、どれに乗るか決めたら、後はお決まりのコースを巡っておしまい?

人間は誰一人として同じように生まれてはこないし、置かれた境遇も経験する出来事もそこから学ぶこともそれぞれ違う。だから、突き詰めれば、人生には「お手本」や「型」なんてない。あんな風に生きたい!とめざしたいモデルはあっても、こういう風に生きればすべてオーライと保障してくれる「型」なんて、ない。

生き方は、選ぶもんじゃない。切り開き、創っていくもの。どんな人生がいいかと悩んでいる人、欲しい人生がわからないと悩んでいる人、人生選びがうまくいかないと落ち込んでいる人、出来合いの「生き型」を買ってきて身にまとおうとするのではなく、ただ一つの「自分」という人生を自分として創っていこうよ。

まず、体を動かして、自分であることを精一杯楽しもう!

そうすりゃ特注の自分だけの人生が、できてくる。


としひで でした。
posted by 創作舞踊集団 寶船 at 21:54| Comment(1) | TrackBack(0) | 中山 俊秀 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月06日

無限の可能性

こんばんは。としひで です。

今日は「無限の可能性」について考えてみたいと思います。

「無限の可能性」というと、これから人生に乗り出す二十歳前後の若者の専売特許のように思われる。ぼくもずっとそう考えていて、40代も終わりの自分には遠い昔になくなってしまったものだと思っていた。

 でも、最近気がついた。人間にとっての「無限の可能性」というのは、その意味が歳と共に変わってはくるが、ずっと我々の手の届くところにあるのだ。

 社会の一員として生き始めたばかりで人生の大きな選択をしはじめていない若いとき、そこでは、「無限の可能性」を、「無限の選択肢」、「選択の制約からの自由」と考えるもの。そういう意味での「無限の可能性」は、人生の選択を重ねていく中で、確かにだんだん狭まり、縮小していく。

 大人になって大きな選択を重ねていけば、確かに自分の活動が絞り込まれていく。でも、この絞り込みは必ずしも自分という生命を限定するものじゃない。むしろ自分の生き方を絞り込み、エネルギーを集中させる方向性なのだ。そして、絞り込んだ特性をどう伸ばして新しい境地を切り拓いていくか、その方法・可能性は無限にある。

 無数の可能性の中から目指す方向を決められるという若いゆえの「無限の可能性」は、絞り込んだエネルギーの圧力をとことん高め、とことんとんがって、全く新しい道・世界を切り拓くという歳を重ねたゆえの「無限の可能性」に転じる。

若者たちよ!

目の前に大草原のように広がる可能性を広々と見渡して、しっかり道を探そうぜ!
そしてとことんこだわり、とことんとんがれ!
なんでもできるぞ!

大人は楽しいぜ!

としひで
posted by 創作舞踊集団 寶船 at 00:04| Comment(1) | TrackBack(0) | 中山 俊秀 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月28日

夕日の力

沈む夕日の力はすごい。

その美しさが人の歩みを止めさせて、その光景に見入らせる。

UclueletSunset1s.jpg




幸せな人、不幸せな人、楽しいことがあった人、辛いことがあった人、二人で一緒に見ている人、ひとりぼっちで見ている人 -- 人はいろいろな気持ち、いろいろな境遇にあるのに、その人たちみんなを引き留める。

夕日は感動させる人を選ばない。
夕日は何か「意味」を伝えようとしているわけでもなく、感動させようという作為があるわけでもなく、感動することを押しつけもしない。ただ見ている一人ひとりにそれぞれの思いを与える。うれしい人にはうれしい感動を。哀しい人には哀しい感動を。人々に降り注ぐように働きかけて、様々境遇の人々を丸ごと優しく包み込む。

この美しい夕日のように、無差別に人の足を止め見入らせる力を持ちたい。
いろいろな事情を持ち、いろいろな喜びと悩みを背負った人たちに、それぞれの形でしみこんで、温かい思い、力、愛情をわき上がらせる、そんな力を持つものを生み出していきたい。無差別で、有無を言わさぬ圧倒的な美しさと豊かさをもったものを。
posted by 創作舞踊集団 寶船 at 21:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 中山 俊秀 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月26日

久しぶりの稽古〜輪踊りの輪

昨日は久しぶりに寶船の稽古に行った。このところ金曜日に予定が入っていて、なかなか行けなかった。みんなの顔を見るとうれしい。さらに久しぶりの萌ちゃんも来てたし。

 前半はみっちり基礎練習。最近からだが動かせずにいたからかなりきつかったが、楽しかった。基礎練習はじっくり確認しながら練習できるのがいい。踊り始めてそろそろ一年近く。一緒に始めた小学生の娘の麻衣加は振り覚えも速く、私はバカにされてばかりだけど、最近やっと少しずつ阿波踊りのリズムが体に入ってきている気がする。それもあって、踊りの美しさに対するこだわりが出てきた。だから基礎練はうれしい。

 その後、練習の成果を使いながら、輪踊り(渉センセーが「練習の成果を使いながら」と言っているのに全くそんなの無視で気ままな踊りをする陸くんと連長[笑]〜寶船はいつも一袋に収まらないのです...)。みんなの輪の中で一人ひとり踊る。少し緊張はするけれど、最近それほど恥ずかしさは感じなくなった。良い感じ。周りのみんなは踊る人に一歩踏み出してがんばってねという応援の気持ちをこめてもり立て、踊る人はこわい気持ちと戦いながら皆の気持ちに応え楽しませようとがんばる。そのがんばりに皆もうれしくなり盛り上がる。良い連鎖だ。期待や応援の気持ちとそれに応えるがんばり、それによって今までの自分たちより少し先、少し背伸びしたところにみんなで進む〜そんな感じ。

 こんな輪踊りの場をあちこちに作り、もっといろいろな人と一緒に踊れるといいなあ。
posted by 創作舞踊集団 寶船 at 10:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 中山 俊秀 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。