2012年07月22日

阿波踊りというものがだんだんわかり始めた。

昨日は今年の夏の本番一本目の経堂だった。なかなかの幸先の良いスタートだったと思う。

そして何よりも、僕はここ最近阿波踊りという芸能の素晴らしさを改めて実感している。
昨日冗談で連員に「僕十八年もやってきたけど最近阿波踊りの楽しさがやっとわかってきた。」みたいなことを言ったけど、あながち冗談でもない気がする。
この世の中にここまで生身の“人間”のぶつかり合う芸能があるだろうか。誤解を恐れずに言うと、技術とか動き方とかそういうものはあまり関係ない。まさにそこに人間がいて、いかにその人間というものを瞬間的に放出するかの勝負である。

阿波踊りっていうのは「俺が今ここに生きているんだ!!」という意思表示だと思う。何より大事な事は自分という人間を全部出すこと。しかしこれがものすごく難しい。自分を表現出来る人間はこの世に自分しかいない。その自分という人間も毎分ごとに成長していくわけで、だとすると自分が生きていく限り阿波踊りの完成などないのだ。自分の成長に合わせて阿波踊りも成長していかなくてはいけない。だから僕は阿波踊りが上手くなる方法は、
「一生懸命生きる」
ということだと思っている。
振付とか衣装とか基本的な技術とかそういうものはもちろん大事な事なんだけれども、あくまでそれは受け皿であって一番表現しなくちゃいけないものは人間である。
この世の中には沢山の芸能がある。それらはほとんどの場合経験や技術がものを言うことが多い。もちろん阿波踊りだってそういう側面もあるが、必ずしもそれだけじゃないから面白い。
時には阿波踊り歴二日目の人が二十年目のベテランに勝ってしまうことだってあり得る。これだから阿波踊りは面白い。

しかし、ちょっと屁理屈に聞こえるけれども技術はあまり関係ないとはいえ、“人間を表現する”という技術もまたある。
つまりそこが阿波踊りの伝統芸能たる由縁なんじゃないかと思う。阿波踊りは動き方や形ではなく、心を伝達する芸能である。その心の部分に関しては今までもこれからも決して変わることのないものだ。そしてその心を表現するにはある程度の技術がいる。本当の意味での阿波踊りの技術っていうのはそういうことだと思う。阿波踊りという芸能はそこをこれからも伝達していかなければならない。だから阿波踊りはただのアバンギャルドではない。江戸時代の人も今の人も同じ心で踊っている、という伝統をこれからも意識していかなければいけないと思う。阿波踊りは形ではなく、心を伝達するものであるからこそ、伝達することがものすごく難しい。だからこそ僕たちのような今の人達が頑張らなくてはならないと思う。

夏はまだまだ始まったばかりだ。とてもわくわくする。



たかし
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2012年07月21日

特別な夏

ちょっとでも嫌なことがあると、「自分はなんて恵まれない人生なんだ」と思う。

また逆に、
ちょっとでも良いことがあると、「自分はなんて幸せな人生なんだ」と思う。

一見、人の人生観というものは、まるで今までもこれからも変わることが許されない程に揺るぎないものだと思いがちだが、案外人というのは、目の前にある景色だけで生きているような気がする。
目の前で雨が降っていたら、明日晴れる事なんて想像もつかなくなってしまうし、晴れていたら雨の事なんて考えないで、洗濯物を干すものだ。

人はバーゲンセールと言われるだけで、普段は絶対に買わないようなものを買ってしまう。「通常は2万円ですが、本日に限り特別価格の1万円です。」と言われるとついつい買ってしまうことがある。しかし、1万円だって十分高いことに気づくまでには時間がかかる。

心理テストで「あなたはたとえ一人でも人の意見に振り回されない一本筋の通った人物です」と言われると、「あぁ当たってる」と思うし、
心理テストで「あなたは人の意見をちゃんと聞き誰よりも仲間を大切にしている優しい人物です」と言われても、「あぁ当たってる」と思う。

要するに人は人生というものを、まるでさも分かっているような顔をしても、実は一秒後だってわかりはしないのだと思う。

西も東もわからないこの状況でとりあえず一歩目を踏み出すきっかけになるものが、コンパスである。
人が生きる上でのコンパスというのは“思い込み”であるような気がする。

「恵まれない人生だ」と思い込むと、恵まれない人生になってしまうし、「幸せな人生だ」と思い込むと、時に本当に幸せな人生になったりするかもしれない。

大っ嫌いだったあいつがちょっと何かあっただけで大好きになってしまったり、昔欲しくなかったものが、今は一番欲しいものだったりする。

全部思い込みだ。

成功も失敗も、幸せも不幸も、ポジティブもネガティブも、好きも嫌いも、思い込み。

その“思い込む”がいつの日か“信じる”に変わり、それがいつの日か“ほんとう”に変わる。

この世に特別な人なんていない。この世に特別価格などない。
その人が“特別”だと思い込んだ瞬間に、それは“特別”に変わる。



今日から寶船はいよいよ夏の本番だ。今年もいよいよ夏がやってきた。



今年の夏は特別で最高の夏になる。

と、僕は思い込む。






たかし





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2012年05月12日

舞台を作り上げるということ。

舞台を作り上げるとはどういうことか。
一言で言ってしまえば、
“戦い”
だと思う。
舞台を作り上げるとは、自分との戦いであり、メンバーとの戦いであり、お客との戦いであり、何よりも作品との戦いである。
愛がこもるとそこに何らかの闘争心が湧くような気がする。そこにある闘争心とは一口に攻撃という意味ではない。例えばライオンが群を守る為に凶暴化するのと似ているかもしれない。
そこには愛がある。
作品作りには必ず「これだけは絶対に譲れない」というものがあって、それを守る為にはどんな事でもしかねないという心根が、作り手のいわゆるモチベーションに繋がっていく。
しかし、この戦いという表現はあくまで僕の言葉であり、もちろん人によって違う感性の言葉があると思う。
今回の舞台で僕は色んな事を学び体験した。ある意味では自分の弱点や限界も見つけたし、またある意味では僕の才能を再発見する場面もあった。
基本的に演出も振付も全てやっていくことは大変だ。100のうち99は辛いことばっかりだ。しかしその全てを救ってくれるような1があったりするから憎い奴である。
つくづく感じたのは、作り手の最も大事な事は謙虚な気持ちだということ。どんなに一時的に目立ったとしても、その椅子にフッと座ってしまうとそこから新しいものは生まれない。ウォルト•ディズニーの言葉と借りると、現状維持では後退するばかりである。常に謙虚な気持ちを持ち、日々新しい自分の追求をしている者だけがずっといいものを作っていけるのだと思う。



この一年の僕の集大成と言っても過言ではない舞台がいよいよあと一週間で幕を上げる。
今回は今までの寶船の舞台の常識をまた一つひっくり返すような100分間になるであろうと、僕は確信する。

このブログを読んでいる皆さん。
この舞台は僕があなたに捧げるものです。
この20歳の男が今まさにここにいて、まさにあなたがそこにいるということです。

僕は一生泥水を飲んででも何かを表現していくつもりです。

なかなかの自信作。今の僕の心の中。
皆さん是非ご覧になって下さい。会場でお会いしましょうね。




たかし

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2012年04月07日

間接キス


友情とは間接キスである。

ファミリーレストランで同んなじストローで飲むのが、友情だ。

「その餃子一個ちょうだい。」が、友情だ。

別に大したことじゃない。
よく本屋に行くと“友情”について色々書いてある本がたくさんあるけれども、結局はそんなに大したことじゃない。

人は不安だから確認したがる。「僕たち友達だよね。」だとか「ずっと友達でいようね。」だとか。

人は友情とは物凄い重大なことかのように言いたがるけれども、考えてみればそんなことじゃないと思う。

だから僕は思う。友情っていうのは、間接キスの間柄だ。50センチでは近すぎる。1メートルでは遠すぎる。
ラクダだ。馬じゃない。そんなに速く目的地に連れて行ってくれなくても、のほほんとなんとなく道しるべをくれるのが友情だと思う。



そして尚且つ思う。
恋愛とは直接キスである。





ちょっとキザかなぁ。




たかし


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2012年02月24日

忘れられないものを

どうもこんばんは。陸です。お久しぶりです。
近頃は5月に行なわれる寶船春公演の演出のことばかり頭の中で脳内再生して、向こう側まで行ってしまって、半ば変態にも近いような心持ちで振り付けを考え、稽古に向かったと思ったら、毎日毎日が言うなれば戦いであって、非常に緊張感を持った毎日を過ごしておりますのでありますのである。
一日に25時間くらい演出のこと考えているほどに寶船漬けの毎日であります。詰まるところ、充実しているという言い方も出来るかもしれません。

そんな傍ら、僕は最近様々な事に興味を持ち始めたとも思うのです。言うなれば勉強意欲が旺盛であるというかなんというか。とにかく僕は色んな事を知りたくて仕方がありません。
宇宙の事、数学の事、恐竜の事、日本史、等々枠に囚われず様々な事を吸収していきたいと本気で思います。大事なのは、いかに無駄であるか。生活を送る上で必要ない知識であればあるほど興奮します。
そんな意味でキングオブ勉強家とも言える、荒俣宏さんの「アラマタ大事典」なる本を買って読んでるっつう話ですよ。米澤陸は。

なんかわかんないけど、僕は子供の頃から記憶力がいいのではないかと、自分の能力を過信しているところはあるんです、はい。だからなんか昔から何かと暗記する事が好きだったような感じがしていて、何か自分の中に知識を取り込んでいってる感じが快感で、ポケモンで言うところの、カメールからカメックスに進化したような嬉しさがあるんですね、おす。(誰も共感してくれないか、、)

僕が思うに、記憶力に大事なのは“覚える能力”よりも“忘れない能力”のほうが大切なんだと思うんですよ。
そういった意味で考えると曲作りでも、“すぐに覚えられる歌”なんかより“忘れられない歌”であることを重んじるべきだし、そのほうがレベルが上だと思います。“忘れられない歌”というのはただ“いい曲”なだけではなく、何かがそこにあるんだと思います。その“何か”を僕たちは求めるべきものなのではないでしょうか。この事は振り付けにおいても何においても言えることです。

「すぐに覚えられるものよりも、忘れられないものを。」

この言葉を合言葉にこれからものづくりに励みたいと思う陸でした。

終わり。
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2012年01月06日

意地になる。

そんなわけで新年を迎えまして。

僕、元旦に考え事をしてまして。

ひとつ気づくことがありました。

「そういえば最近みんなあんまり『節電節電』言わなくなったなぁ〜」と。

考えてみたら僕も一時期みたいに節電節電ってなってないような気がいたします。

こんなこと言うと批判がされそうですが、

正直な話、“節電”っていうキーワードもどっか“流行”だったような気がしませんか?

もう時間が過ぎてしまったら忘れ去られてしまうようなものというか何と言うか。

そして忘れ去られてもなお、たとえ一人であっても節電を続ける人というのはどっか“意地”のような気がいたします。

でも僕はそれでいいのだと思います。別に僕はその状況が悪いとは思いません。

つまり僕が気づいたことというのは、



『この世には“流行”と“意地”しかない』



と、いうことです。

流行というものは、ムーブメントになっている間は物凄い勢いで駆け回りますが、残念なことに、流行というものは、時間が経ってムーブメントが過ぎてしまうと、多くの人から忘れ去られてしまうものです。

しかし忘れ去られてもなおそれを続けているというのは“意地”以外の何物でもありません。

わかりやすく言うと、AKB48が流行っている今のご時世に、「いや、あんなやつらよりモーニング娘。のほうが遥かに凄い。」って言っているような人って、どっか意地になっている部分は多分あると思うんです。





しかしながら、
時代を変えていくのはいつでも“意地”になっている人です。
「ふざけんじゃねぇ。俺はたとえ一人になったってやってやろうじゃんか。」って意地になっている人こそが、新しい時代を切り開いていくように思います。


僕だってそうです。
正直阿波踊りなんて誰からも相手にされないんじゃないかと思っていました。
そんで寶船から友達が一人辞めていく度に僕はどっか意地になっていたように思います。

それはまるで悪口を言われて、ムキになって言い返してしまうのと同じように、
僕は阿波踊りでどっか意地になっていたように思います。

「見てろよ。いつか全員ぎゃふんと言わしてやる!!」

みないなことが僕の原動力のような気がします。
その一心で稽古を積み、その一心で作品を作り、その一心で本番に懸けてきたように思います。



つまり僕の言いたいことは、



「情熱の正体は“意地”である。」



ということです。



時代はいつでも、


負けず嫌い程、勝つ!!!!


それだけです。





たかし
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今年の目標

皆さん、新年明けましておめでとうございます。寶船クリエイティブファイティングマンこと、米澤陸でございます。
今年2012年もいつものように、いや、今まで以上に米澤陸が、米澤陸であるべく、米澤陸の、米澤陸による、米澤陸の為の、米澤陸であり続けたいと思います。勝負です。こっから先は勝負です。




僕は毎年お正月に『一年間の目標』というものを決めるのが、ここ数年の恒例行事となっておりまする。

例えば一昨年だと、

『No.1になる』


例えば去年だと、

『宿題を忘れない』

うん。まぁ、どちらも自分の中では達成したと言えば達成しているような気もするような。

それでは、今年一年の目標を発表したいと思います。



『恒星になる』



です。

とにかく今年の目標はいかに沢山の人に見られて、さらに認められるか、ということが一番の大きな課題だと思っております。
どんなに凄いことをやっていても、誰かに認められなくては意味がない。
そんな時に僕達は恒星にならなくてはいけないのです。惑星のように誰かの光に照らされて生きるのではなく、恒星のように自ら光を放つのです。
そうでなければ、遥か何万光年先の誰かから観測されることはありません。
自ら光を発する恒星になる。そうです。太陽になるのが今年の僕の目標です。


勝負です。こっから先は勝負です。







たかし
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2011年12月08日

反抗する為にある

嫌いである。

年上にヘコヘコする奴が嫌いである。そしてまた、年下に偉そうな奴も嫌いである。
サラリーマンなんかを見ているとつくづくそう思う。
本当に敬うべき人を敬うべきである。年上だからといって偉いわけではないし、年下だからといって偉くないわけでもない。
「目上を敬いなさい」だと?上下関係だと?しゃらくさい。大嫌いだ。

結局のところ、楽だからである。
人間というのは何かを決めておくほうが楽なのだ。先輩が“偉い”とか“偉くない”とかというよりも、“先輩を敬う文化”という固定概念を作ったほうが楽なのだ。本当に敬っているわけではない。ちょうど女子高生が制服を着ると、服選びに悩まなくて済むのと同じである。全ては楽だからだ。もっともっとお互いにヒリヒリする関係性が望ましい。

かと言って、
“上下関係”がないほうがいいかと言われれば、そういうわけでもないと思う。
そもそも、“上下関係”とは一体何の為にあるのだろうか。
まず、“上下”とはただのメモリである。それだけのものだ。余分に生きてる。ただそれだけの事実だ。
そこに何らかの関係性をくっつけたい、というのが“上下関係”の正体である。

では上下で関係を持つことの意味とは一体何だろう。多分僕は「歴史を作る」という意味ではないかと思う。上の人のものを下の人に受け継いでいく。これこそが“上下関係”の意味だと思う。

ではどうすれば“歴史”を作っていくことが出来るのであろうか。
ただ敬うだけでいいのだろうか。そんなことはない。

アンチである。反抗である。

今までの時代を受け継いで、新しい時代を作っていく為には、必ず“反抗精神”が必要である。
「お前らなんて面白くねぇんだ。これからは俺達だ!!」の精神が大切だ。

むしろ僕は、影響を受けて尊敬している人にこそ牙をむいて噛み付いて反抗していくべきなのだと思う。
影響を受けたからこそ挑戦するのだ。




このことを踏まえて考えると、

“上下関係”とは反抗する為にある。

というのが僕の意見だ。

考えてみると、僕の表現の源を突き詰めてみると“反抗精神”ではないかと思う。
今までやってきたことは全て突き詰めれば反抗だったのではないかと思う。

そもそも新しいものを作ること自体、反抗だ。古いものをぶっ壊すからこそ、新しいものが生まれる。
これは必ずしも他人に対してだけではない。時には自分に対しても反抗していかなければならない時もある。古い自分を常にぶっ壊すことをしていかないと、新しい自分が生まれない。新しい自分が生まれなければ、新しいものは作れない。



つまり、今日言いたいことは、

“上下関係”とは反抗する為にある。そして“反抗精神”を決して忘れてはいけない。

ということだ。



最後にチャールズ・チャップリンの言葉で終わりたいと思います。





『笑いとは反抗精神である。』





たかし
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2011年12月02日

“人を引き付ける”とは?

こうやって芸能というものをやっている端くれとしては、やはりいかに人を引き付けるか、ということに神経を集中させてしまう。
いわゆる“華”みたいなものって天性であったりする。いっくら凄まじい努力をしたところで結局は“華”がある人が全部持っていってしまう、ということはよくあることだ。
しかし“華”というのは簡単に出せるものではない。
まず第一に、その本人が自分の“華”に気づいていなければいけない。これって簡単なようで意外と自分の色に気づく、というのは難しいことなのである。
そして第二に、その“華”の見せ方をきちんと知っていなければならない。どんな見せ方をすれば自分は一番引き立つのか?そのことがちゃんとわかっている人は強い。だってそれがわかっていたら“まぐれ”っていうことがなくなるのだから、確信犯的に人を引き付けることが出来るのだ。



と、まぁこんなことを書いてはみたが、



本当のところ、引き付けることに方法論なんてないのかもしれない。
だって方法論で補えるのならば、赤ちゃんや、綺麗な花や、夕焼けなどに意図も簡単に勝ってしまうことが出来るはずである。しかしなかなかそれは容易に出来ることではない。
所詮僕たちの頭の中で考えている方法論なんてものは、結局大したことはない。
やはりいかに人を引き付けられるかというのは、その人の“感覚”に委ねられているような気がする。
「なんとなくこんな感じ?」みたいなその人の潜在的に持っている感覚が大切なのだ。



しかしながら僕は、「人を引き付ける」ということがこの世で一番幸せな瞬間だと思っている。
人は姿・形だけでなく、心に共鳴してくれている瞬間。あの瞬間に取って代わるものなんてない。素晴らしい瞬間である。

凄い時はまるで自分が強力な磁石でもあるかのように、お客がぐいぐい僕に注目するのである。あの境地まで至った時は本当に気持ちいい。多分僕はあの瞬間の為にやっているのだと思う。

しかし人を引き付けるということに終わりはない。
凄まじい人になると、出て来ただけでその人の空気を作ってしまうのだ。何と言うか、その空間全体をカポッと覆ってしまうというか。その人が出て来た途端に、ドームのようなものが全体を覆ってしまうのだ。信じられないことに、そんなことをやってのけてしまう人というのがこの世の中には存在するのである。

僕もそんな風になれる日を夢見て、日々芸の道を精進していきたいと思います。






たかし
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2011年11月25日

立川談志師匠を偲んで

落語家の立川談志師匠が亡くなった。

今週はこの事を書かずにはいられないだろう。

僕は今まで談志師匠にどれだけの影響を受けてきたのだろうか。
芸自体ももちろんのこと、芸に向かう時の精神、人間的な魅力、言動。僕は談志師匠の全ての事に影響を受けてきたと思う。
もう談志師匠についてはこの一件のblogだけでは到底書ききれないほどに僕は影響を受けてきたのである。
恐らくチャップリン、ボブ・ディランなどと並び、僕の人生で最も影響を受けた人物の一人である事は間違いない。
深夜に一人で談志師匠の「芝浜」を聴いて、号泣したのをまるで昨日のように記憶している。今だに談志師匠の「芝浜」を聴くと絶対に泣いてしまうので、恥ずかしいからあんまり人と一緒には見られない。

そんな立川談志師匠が今週亡くなった。

なんと言うか、僕の心の中の一部がすっぽり無くなったような感覚だった。

談志師匠はその存在だけでも意味があった。この世に談志師匠がいる、というだけで僕はどこか励みになっていたような気がする。
こんな事を書くとアホみたい思われるかもしれないが、僕はいつか談志師匠に認められるのが夢だった。
談志師匠が生きている間に僕は、ビックになってやりたいと思っていた。

しかしその夢は今週ついに叶わぬものとなってしまったのである。

僕はソファーに寝そべりながら談志師匠が亡くなった事を知った。
あの時の感覚を上手く文章にする事は難しい。とにかくショックだった。
いや、正確なところ、談志師匠が亡くなった事自体がショックだったのではない。僕が平日のど真ん中にソファーに寝そべりながら談志師匠の訃報を聞いた事がショックだったのかもしれない。
アホみたいな顔してソファーに寝そべっていた自分に腹が立った。そして“焦り”に近い感覚に襲われた。「これじゃだめだ。これじゃだめだ。」と頭の中で呪文のように唱えた。

とにかく僕はこのままじゃだめだと思った。

何か残さなくては。何か動かなくては。

談志師匠が亡くなった事で僕はそんな事を思った。






このblogのしめはどんな事を書くのが相応しいのであろうか。

仮に「談志師匠お疲れ様でした。」なんて書いたら、談志師匠に怒鳴られそうである。

だから僕はあえてこう書く。






談志師匠。見ていて下さい。僕はいつかあなたを越えます。新しい時代を作ります。






米澤陸
posted by たかし at 13:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 米澤 陸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月17日

ハプニングから始まる

人は何の為に生きているのか。

面白いからである。

人は何の為に生きたいと思うのか。

面白いからである。

結局のところ、人が何かをやろうとする究極の目的というのは「面白さ」であると思う。
踊りや音楽は勿論の事、仕事にしろ、学業にしろ、はたまた恋にしろ、突き詰めれば結局のところ、「面白い」からするのである。



「ただ面白いだけでいいのかー!!」と人は言う。



ただ面白いだけでいいのである。



先週の木曜日の僕のblogで、「人生なんて無意味なのだ」というようなことを書いた。

確かに人生に意味なんてものはない。

しかし理由はある。

僕たちは一体何故生きているのかと言われれば、結局のところ「面白い」からである。

では「面白さ」とは一体何なのか?

今日はそのことを僕なりに書きたいと思う。





まず思い出してみよう。皆さんが今までに「面白いなぁ」と思った瞬間を思い出してみてほしい。

どんな瞬間でしたか?どんな状況でしたか?

人が面白いと思う瞬間。例えば、「名作映画のクライマックス」、「名曲のサビ」、「お笑い芸人が変な事を言った瞬間」、「友達の珍エピソード」。挙げればきりがない。

しかしこれらには共通している事がある気がする。



では逆に、皆さんが今までに「面白くない」と感じた瞬間を思い出してみてほしい。

「眠くなる学校の授業」、「なかなか時間が進まないアルバイト」、「ずっとストーリーが単調な連続ドラマ」。

これらにもまた共通している事がある気がする。





僕は小学校の時にこんな体験をした。





あれはたしか僕が小学校6年生の夏だった。毎日毎日同じような事ばかりやっている算数の時間。
正直な話、僕は算数の時間が嫌だった。つまらなかったからである。そう「面白くなかった」のだ。
しかしこの日だけはいつもの算数の時間と違った。
誰しもが予想だにしなかった出来事が起こったのである。
その日は夏で暑かったから教室の窓は全開にされていた。
そこにいきなり一羽のカラスが教室に入ってきてしまったのである。
クラスが一気に大パニックっ!!みんな慌てて「キャーッキャーッ!!」などと悲鳴が飛んだ。
しかし僕は正直なところ、そんなハプニングが「面白い」と感じてしまった。





これなのである。まさにこれなのである。

あの時何故僕が「面白い」と思ってしまったのか。それは「カラスが教室に入ってきた」という“ハプニング”を「面白い」と感じたのである。





そう、

人が感じる「面白さ」の根源とは、“ハプニング”なのである。





考えてみれば実にそうである。

例えばお祭り。お祭りは一年に一回だからこそ「面白い」のである。あれが毎日毎日行われてたら多分誰だって、いつしかつまらなくなると思う。
立川談志師匠が「祭とは非日常性を味わうもの」と言っていた。確かにその通りである。

つまりお祭りでも一年に一回、普段の日常とは違った事を皆でしようという、言いかえれば「非日常性」という名の“ハプニング”を起こしているのでる。





考えてみればこのことは全ての事柄に言いかえる事が出来る。

映画にしろ、面白い場面というのは主人公が危機的状況であったり、何らかの“ハプニング”が巻き起こる場面である。

音楽にしてもそうである。まぁ、音楽の場合は言葉で説明するのが難しいのであるが、作曲をする時に作曲家が一番気をつけるのは、「いかに印象的なメロディーを作るか」という部分である。つまりここでも「今までにないメロディー」という名の“ハプニング”を巻き起こしているのだ。

笑いだともっとわかりやすい。例えば誰かがバナナの皮を踏んづけて転んでしまったとする。人はこれで「面白い」と思う。やはりこれも「ずっこけてしまった」という“ハプニング”を笑っているのだ。





つまり、僕がとにかく今日言いたい事は、


「人は“ハプニング”を『面白い』と思う」という事である。


逆に言えば、“ハプニング”が起こらない状況というものこそが「面白くない」という状況なのだと思う。


ということはつまり、

より人生を面白くする為には、毎日に何らかの“ハプニング”を起こしていく必要がある。

ただし、この「“ハプニング”の起こし方」というのが俗に言うその人の“センス”と呼ばれるものである。
ただ単純に“ハプニング”を起こせばいいというものではない。問題はどういった“ハプニング”をどうやって起こすかだ。



より粋な“ハプニング”を起こして、皆さんが毎日を快活に生きていく事を願って、



今日のblogを終わりたいと思います。





たかし
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2011年11月10日

無意味について

何となく肌寒くなってきた今日この頃である。いわゆる俗に言う「冬」というやつが近づいてきた事を薄々認めざるを得ない状況であることはもはや否めない。しかしながらそんな状況下でありながら、やはりそれを認めたくないという自分がいる事も事実である。つまり、「冬」というやつが刻一刻と近づいているのにもかかわらず、「まだ秋である」という現実逃避にも近い自己暗示をしているのである。実際に、服装においても今だに薄手の上着を着ていて、さすがにこんな服装だと寒くて耐えられそうにないのである。

毎年この時期になると、まるでブームでもあるかのように必ず若い人たちは“悩み”というものを持ち出し、その近くにいる人がお決まりのセリフ「誰にだって悩みはあるよ」なんて事を言うのである。このような傾向にある人たちというのは、決まって10代の後半から20代の若者たち。ちょうど僕と同じくらいの年齢である。

彼らの“悩み”の種というのは、例えば「恋愛」、「友達」、「家族」、「仕事」、「自分自身」等様々である。しかし、彼らの“悩み”というのは要するに一言で言ってしまえば、「人生の意味を求める」という事ではないであろうか。

結局のところ、人間が何故こんなにも悩んでいるのかと言うと、「人生の意味」を見出だしたいからである。自分は何故生きているのか。自分は何の為にこんな事をやっているのか。その答えを人は常に探しているのだと思う。しかしそんなものはいくら悩んだところで結論など出るはずがないのである。

何故か。

結論から言えば、「人生」に意味などないからである。

人は見えないものこそ見たいと思うし、存在しないものこそ手に入れたいと思う傾向にある。しかしながら、どんなに探したところで、生きている意味など存在しない。最近僕はつくづくそう思うようになった。

結局のところ、無意味なのである。人生なんて何の意味もないのである。人生だけではない。この世の中に、意味のあるものなど存在しないのだ。

踊りを踊る事も無意味だし、歌を歌う事も無意味だし、恋をすることも、仕事をすることも、結局は無意味なのである。

そこに何らかの意味を見出だそうとするからこそ、人は“悩む”のである。

しかしだ。この世の中で“意味”というものほどつまらないものはない。どんな熱いものでも“意味”を付け加えた瞬間に冷めてしまうものだ。

いや、正確に言えば、“意味らしきもの”を言語化する事が冷めるのである。

例えば、「『布団が吹っ飛んだ』というギャグは、“布団”という言葉と、“吹っ飛んだ”という言葉を掛けた事によって…」という事を言い出したら、こんなつまらないものはないのだ。

むしろ僕は、無意味だからこそ素晴らしいのだと思う。言い換えれば、無意味な事こそ最大の“意味”があるのであると思う。
阿波踊りにしろ無意味な行為だからこそ素晴らしいのであって、無意味な事を本気でやるということほど面白い事はないのだ。

だから次回の寶船の公演も“無意味”という事がキーワードになってくると思う。

人生に意味などない。無意味だからこそ素晴らしい。





そんな事が言いたい今日のblogでした。





たかし
posted by たかし at 20:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 米澤 陸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月07日

夏の終わりに

たかし君がクロネコヤマトでアルバイトをしていると、

ベテランドライバーさんに突然、

「幸せ?」

と聞かれました。

たかし君は思わずドキッとしてしまって、

「はいっ?」

と聞き返してしまいました。

ドライバーさんは笑いながらもう一度、

「幸せ?」

とたかし君に聞きました。

たかし君は何故かその瞬間に、ふと寶船のことを思い出しました。

そして、反射神経にも近い感覚で、

「はい、幸せです。」

と言い切ることが出来ました。

今振り返るとあの時何故あそこまでに「はい、幸せです。」と言い切ることが出来たのか。

それは恐らくたかし君が幸せだからなんだろうと思います。

歳がいくつであろうと、何をしていようと、「幸せだ」と言い切ることが出来たということは、

それは少なくともたかし君は幸せなんだろうと思います。

あの時迷わず「はい、幸せです。」と言い切ることが出来たたかし君は、何かとても誇らしげな顔をしていました。

ふと地面を見ると蝉が死んでいます。

もう夏も終わりです。またしばらくばいばいです。

今年の夏はたかし君にとって特別なものでした。

またこれから、特別な秋、特別な冬、特別な春がやってきます。

きっとたかし君の幸せというのも、

特別なものなのかもしれません。
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2011年09月03日

あなたへ

拝啓。

僕は何があってもあなたを信じていくし、今までもこれからも僕はあなたと踊っていきたいと思っています。

たとえこれからいくつもの嵐が過ぎようとも、あの僕たちが植えた根っこはそんな簡単に折れたりしません。

手をあげて足を動かせば阿波踊り。

つながっているのが阿波踊り。

頼って頼られて、揺られていくのもいいと思います。

今日は待ちに待った稲城の阿波踊りですね。

僕はあなたと一緒に踊ることが何よりも嬉しいです。





たかしより
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2011年08月20日

シーソー

オリジナリティーがありすぎる人ってちょっと怖い。
エネルギーがありすぎる人ってちょっと怖い。
オリジナリティーとは恐怖心と好奇心とのシーソーである。
恐怖心と好奇心、どちらの重さが上回っているかでオリジナリティーは決まる。



本日、下北沢二日目。



伝統がオリジナリティーなわけじゃない。

オリジナリティーが伝統になるのだ。



芸を細かく。






行ってきます。
posted by たかし at 15:40| Comment(2) | TrackBack(0) | 米澤 陸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月19日

僕はお前に勝つ!!

そういえばこのblogで書くのを忘れていましたが、我々一同は徳島に出陣してましりました。

なんというかもう凄かったです。

文章にしてしまうと、あの時の胸がキュンとなる感じとか、ハートがギュッと熱くなる感じとかが小さくなってしまう感じがして、あんまり書きかねますが、

なんというかもう凄かったです。

はい。

なんというかもう凄かったです。

もう阿波踊りは僕たちでした。僕たちは阿波踊りでした。

よく人に僕たちは阿波踊りじゃないとか言われますが、

僕たちからしたら、阿波踊りとは僕たちのことです。


とにかく本当に“楽しかった”という言葉では片付けられないくらい、楽しかった。


それだけです。











そして、本日は下北沢一日目。


雨が心配ですが、関係ない。










阿波踊り上手くなる方法教えてあげよっか?












『一生懸命生きる』












それだけ。
posted by たかし at 16:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 米澤 陸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月06日

これから、清瀬!!

image/2011-08-06T15:35:32-1.jpg


左からカッシー、けいすけ、こうじ、マスキー。


初参戦の清瀬。





行ってきます。やったります。
posted by たかし at 16:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 米澤 陸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月23日

時々ドキドキ

「ドキドキしないとハッピーじゃないよね!」

って矢沢永吉が言っておりました。

この夏のテーマは、

『ドキドキする!!』

ですっ!!

なんで僕が生きているのかと言われれば、

ドキドキする為です。

ドキドキしてる歌、ドキドキしてる恋、ドキドキしてる踊り。

ドキドキしてないと夏じゃない。

ドキドキするぜ。

ボンバーハート、アイアム心臓!!









さ、今日は経堂での阿波踊り。

ドキドキするぜ。

ドッカーンッ、Jr.
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2011年07月22日

この夏について

勝ちたいんです。どうしても。この男ははてさてどういうわけか、勝ちたいんです。見えないものに縋り付いたりだとか、いけないことをしたくなったりだとか、そういうのが夏なのであって。

夏休みが恋しくなるのは、夏休みがなくなってからなんだと、つくづく思いました。夏というのは面白いもので、暑くて食欲なくなるし、やる気もなくなってくるし、Tシャツ何枚もなくなるし、お金なくなるし、
だけどもだけども毎年毎年夏が来ると、なんだかワクワクして、恋しくなるのは何故なのでしょうか。

僕ももうすぐハタチ。

ピカピカハタチ。

少しまえのめりに歩いて見ようと思います。










◎寶船夏のスケジュール◎

7月22日(金) 神楽坂まつり
7月23日(日) 経堂まつり
7月30日(土) きたまち阿波踊り
8月 6日(土) 清瀬駅南口ふれあいロード夏祭り
8月 7日(日) 東林間サマーわあ!ニバル
8月14日(日) 徳島市阿波踊り
8月15日(月) 徳島市阿波踊り
8月19日(金) しもきたざわ阿波踊り大会
8月20日(土) しもきたざわ阿波踊り大会
8月27日(土) 東京高円寺阿波踊り
         ※コムシス連の鳴り物サポート
9月 3日(土) 稲城阿波おどり大会
9月 4日(日) 中村橋阿波おどり












勝ちに行く。
posted by たかし at 13:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 米澤 陸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月26日

燃え尽きてたまるか。このポッコリめ。

ワンマンが終わりましたね。

終わったって書いておきながら、書いてる本人が恐らく一番終わりを実感してないような気がします。

例えばある日いきなり「今日で『笑っていいとも』最終回です。」って、言われて実感湧きます?

パッとテレビつけて水戸黄門がフツーに旅から帰って来てたらなんか変な感じしません?

僕にとって「ワンマンが終わる」っていうのはそんな感じなんです。(わかりにく…)

なんか今だに「次の稽古はどうしよ、、」と頭抱えそうですし、ましてや日曜日が近づくと「9時間稽古だぁ〜」とプレッシャーで潰れそうになります。

そんなにも僕にとってワンマンというのは特別なものであったわけです。一つの挑戦であり、人生の節目であり、そして同時に僕のMな部分を触発するものでもありました(…?)。

よく世間ではまさに今の僕の状態のことを『燃え尽き症候群』と呼ぶみたいですが、僕世間知らずっていうのもあり、全く燃え尽きる気配がありません。お蔭様で僕は元気です。

こんな事で燃え尽きてたまるかっ。俺様の心のろうそくはそんなにちっちゃくないぞーー!!ってな感じです。


だって今日なんて、


昨日のビデオ見て、


昨日の思い出に浸って、


この二ヶ月間の自分の頑張りに少し胸を張って、


明日からどうしよーって考えて、


少しボーッとして、


お茶飲んで、


ボーッとして、


ボーッとして、


だいぶボーッとして、


ました…。




って、




燃え尽きてるじゃん。。。。。。


あしたのジョーの矢吹ジョーでもこんな燃え尽き方してませんよ。ジョーはジョーでもどこんどこんジョー。置き去りにした僕の青春は一体どこんジョー?

もはやあしたのジョーを通り越して、「きのうのショー」について考えてますよ。(うまいっ!)




・・・。




まぁあもう終わったものは終わった事として、僕は次の目標に向かって頑張りたいと思います。


まず手始めに、


明日(正確には今日)、急遽吉祥寺Black&Blueでライブが決まりました。

もしお時間とお気持ちとお財布の紐に余裕のある方は是非見に来て下さい。


あと、11月10日の吉祥寺シルバーエレファントでやる“オール新曲ライブ”のほうも是非よろしくお願いします。











以上、たかしのマネージャーでしたぁ。
posted by たかし at 01:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 米澤 陸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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